7
『あ、先生、先生! 梅梅さんとラウちゃんの健診はどうでしたやろ。2人とも大事な家族なんやから、しっかり診てあげてくださいよ。
梅梅さんのおやつのリンゴ、今日も無農薬にしといてくれましたか。産後の肥立ちの漢方薬は、もう少し続けた方がええと思うんやけど。
それと、この前僕が言うてたラウちゃんの遊具、あれそろそろ試してみたらどうやろか。ラウちゃん活発やし、きっと喜ぶと思うんや。
あ、あと、僕に何か美味しいおやつ、持ってませんやろか? メェ~~♪』
「持ってないわよ! しかしアンタも世話を焼きたがるねぇ。良浜はアンタの子じゃないでしょ」
隣の部屋から聞こえる永明さんと女性獣医さんの声に、良浜にお乳をあげていた梅梅さんはクスッと笑いました。
すくすくと育っている良浜は、お乳を飲む力も強くて健康そのものです。
充分飲み終わると、つぶらな瞳をぱっちりと開けて、可愛い笑顔でお母さんを見上げました。
『…おかあちゃん、らう……ケプッ! おなかいっぱいでちゅ!』
『ああ、よしよし。ちゃんとゲップも出たんやね。そんなら少しお昼寝しよか』
『ねむない~! あちょぶの~! おじた~ん!』
小さな良浜は、梅梅さんの膝から降りてよちよちと隣の部屋の仕切りの方へと歩いてゆきます。
『おじたん、せんせぇにメェ~♪いうたでちゅ。あまえんぼさんでちゅ!』
『あはは、聞かれてたか~。うん、ラウちゃん、この先生はおじさんのママみたいなひとなんやで~』
「誰がママだって? こんなわがまま息子、産んだ覚えないわ!」
(永明さん、確かに相変わらず甘えん坊やわ)
梅梅さんは微笑ましくそんなことを思いながら、賑やかな輪の中に入っていきました。
永明さんは後ろ足で立ってこちらの部屋をのぞき込み、尻尾を振らんばかりです。
『いやぁ、梅梅さんはお子を産んでますます美しさに磨きがかかってるし、ラウちゃんは可愛くて元気やし、なんて幸せな眺めやろ。
こんな景色がここで見られるなんてなぁ…』
『あのな、さっきな、らう、おかあちゃんのおみみ、ガジガジしてん。そしたら、しばかれたんやわー!』
『ああ、ほんまにラウちゃんは関西弁ネイティブに育ったなぁ。白浜の子や。可愛い可愛い』
永明さんが目じりを下げ、獣医さんが大笑いして、梅梅さんも笑います。
幸せな、本当に幸せな時間が流れてゆき…でも、梅梅さんには分かっているのでした。
その頃の飼育下でのパンダの子育ては、ほんの数か月の間だということを。この幸せな時間も、それほど長くはないということを、
梅梅さんはいつもその運命を心の底で噛みしめているのでした。
8
『そうですか…もうあと1か月ほどで独り立ちを…』
『ええ、今日、先生から話を聞きました。ラウちゃんも順調に育ってるし、中国側のスタッフからもそう指導されてるって』
また季節は移り、晩秋の夜。
良浜はスタッフに預けて、バックヤードで永明さんと2人になった梅梅さんは、しっかりした口調でそう言いました。
『残りの時間、子育てを楽しみます。永明さんは心配せんといてくださいね』
『…一番辛いのは梅梅さんや。そしてラウちゃんや。僕にできることがあったら、何でも言うてください。2人のためなら、何でもします』
『おおきに、永明さん。大丈夫、あの子がもう少し大人になったら、また再会できることもあるでしょう。親離れは、いつか必ず来る試練です』
『そうやね。梅梅さんもラウちゃんも、ここにおるんやから。生きている限りまた会えるんや』
そう言いながら、まるで自分が離れ離れになるように辛そうな表情の永明さんを、梅梅さんは悲しみの中にも嬉しく見つめました。
その深夜。
眠っていた梅梅さんは、どこからか聞こえてきた呻き声に驚いて目を覚ましました。
薄闇の中、うつ伏せの永明さんの体が小刻みに震えています。
苦しそうな声が洩れ、よく見ると涙がぽろぽろとこぼれているのが分かりました。
『永明さん! 永明さん、起きてください! どうかしはったんですか、永明さん!』
柵を掴んで慌てて叫ぶと、永明さんの体がまた大きく震え、目を覚ましたようでした。
『ああ…すみません…。僕、なんて情けないんやろ…。
…昔から、何度も見てる夢があるんです。ここしばらくは見てなかったんやけど、今日、久しぶりに見てしもて…』
『まぁ、どんな夢なんですか。良かったら話をしてください』
梅梅さんが促すと、永明さんはしばらく考え、ぽつりぽつりと話し始めました。
『僕は…蓉浜と一緒に歩いてゆくんです…。緑の草原や、深い森の中やお花畑を…一緒に川の水を飲んで、笹を食べたり木陰で休んだり…
とても楽しく、じゃれ合いながらどこまでも歩いてゆくんです。ずっと一緒に行こうね、って誓いながら…。
でも…でも、ふっと気が付くといつの間にか蓉浜はいなくなっていて、僕は必死で探して探して、声が枯れるまで呼んで…でも見つからなくて。
そして僕は思うんです』
そこで言葉を切って、溜息と共に絞り出すような声で。
『ああ、僕は、この星でただ独りの、最後のジャイアントパンダになってしまった……と』
その言葉の重みに、梅梅さんは息を飲みました。
その寂しさが、切なさが、梅梅さんの足元に押し寄せてくるようでした。理屈ではない圧倒的な悲しさに、押し倒されるような気がしました。
『…この星でただ独りの…最後のジャイアントパンダ…』
『ええ、そんなはずはないと分かっていても、夢の中ではそう思うんです。それが寂しくて寂しくて…昔から、何度もその夢を見るんです』
永明さんはそう答えると、また涙をぽたぽたと落としました。
『僕は…寂しいんです。何故だかずっと寂しかった。生まれてすぐ双子の弟と離れた時…母親と離れた時…仕方ないことなのに寂しくてたまらなかった。
僕ひとりだけ別の施設に行かされて、また遠くに旅して、蓉浜と会えて嬉しかったのにまた独りになって…ずっと何年も独りぼっちで…
大人のパンダならそんなことでこんなに辛いと思わないかもしれない。でも僕には辛かったんです』
その言葉を聞きながら、梅梅さんは、そっと自分の心の底をのぞき込んでみました。
自分達ジャイアントパンダが絶滅の危機に瀕していることは、なんとなく知ってはいました。
でも中国の施設で生まれた梅梅さんは、仲間に囲まれて人間に繁殖の手伝いもしてもらい、それほど危機感は感じていません。
でも…でも、本当にそうでしょうか。
もし、故郷の高い深い山の奥で、その広い世界のどこにも同胞の気配が全く感じられなくなったら。
いくら大人になれば単独で生活するといっても、それでも何の気配も匂いもなく、鳴き声も聞こえず、恋の季節にも誰も訪れず、永遠に子を授かることもないと分かったとしたら。
自分の命が尽きる時が、種族の終わりなのだと知ったら。
何故かは分からない。でも確かに知っているのです。
永明も、梅梅も、他のパンダ達も。自分達が、このまま何も手を打たなかったらいつか地上からいなくなってしまう種族なのだと…。
(そんなこと、いつも考えているわけにはいかない。私も普段は忘れてる…)
でももしかしたら、目の前のこのひとは、ずっと忘れられないのかもしれません。
先細ってゆく自分達の種族の運命をいつも肌で感じて、忘れられず、その苦しさを寂しさに変えてずっと抱えている…それが彼なのかもしれません。
押し寄せてきた感情の波にうつむいている梅梅さんに、永明さんが優しく声をかけました。
『梅梅さん…寂しいでしょう。寂しさって、辛いんや。切ないんや。なぁ梅梅さん、今夜くらいは梅梅さんも泣いてもええんとちゃうやろか』
『はい…おおきに…永明さん、おおきに…』
そして梅梅さんは、未来へ命を繋ぐ子を授かった喜びと、別れの悲しみの涙を静かに流したのでした。
9
晩秋は、パンダ達にとって外で過ごしやすい季節です。
昨夜たくさん泣いて、スッキリして、また持前の明るさを取り戻した梅梅さんは、緑の芝生が鮮やかな庭で小さな良浜と遊んでいます。
隣の庭では永明さんが芝生に置かれたタイヤに座り、のんびりと竹を食べているのが見えました。
ぴょこぴょこと飛び回る良浜の姿を目で追いながら、そのうちうとうとしはじめた時。
けたたましい良浜の笑い声で、梅梅さんは目を覚ましました。
『きゃははは! きゃはははは! おじたん、おもちろいでちゅーーー!』
『あ、いや、ラウちゃん、これはね、ちょっと深く座りすぎて、お尻がスッポリとね…あいたた』
身を起こした梅梅さんが見たものは、隣の庭でお尻がスッポリとタイヤにはまり、抜けなくなって慌てている永明さんと、
それを見ながらお腹を抱えて笑い転げている良浜でした。
『うーん、これはほんまに抜けへんで。おーい、誰か助けて~! 飼育員さーん! 先生ー!』
「ありゃー、永明~! がんばれ~!」
『きゃははは!』
さっきまで静かだった秋の庭は、今や大騒ぎです。
様子を伺いに来た梅梅さんを、良浜が振り返ってキラキラした瞳で見上げ、そしてとびきりの笑顔と共に発せられた言葉は。
『おじたん、かわいいでちゅ!』
『あ…』
その言葉を聞いた瞬間、梅梅さんの胸に、すとん、と何かが落ちました。
『そうや…あのひとは…永明さんは…可愛いんや』
(ずっと思ってた…無邪気で面白くて、寂しがり屋で甘えん坊で、それでいて優しくて大人で、不思議なひとやと思ってた。
それでも何か言い表す言葉がひとつ足りない気がしてた。そうや。永明さんは可愛いんや。可愛いひとなんや)
さざ波のような嬉しさが、心に広がってゆきます。
梅梅さんは立ち上がり、仕切りのガラスに手をかけて永明さんに呼びかけました。
『永明さーーん!! 永明さん、私たちで家族を増やしましょう!!
子供はどれだけいても可愛いもんや。男の子も可愛い、女の子も可愛い、一人っ子も双子も、なんなら三つ子が生まれても、みーんな可愛くてたまらなくなるに決まってる!
そうや! 私たちで家族を増やすんや! パンダを増やすんや! 子供を産んで、大事に育てる! 双子が生まれたら2人とも育ててみせる!
そしたらもう寂しくない! ずっとずっと、誰も寂しくならへん!
100年後には永明さんの遺伝子が隅々まで行き渡って、パンダの数が10倍にも20倍にもなって、きっと今より鼻が3センチ長く、足が10センチ長いパンダが大勢生まれてくるんや!!
この私に任せとき!!』
『えっ、梅梅さん、そ、そうですか? それは嬉しいんやけど、今はその、ちょっとお尻にタイヤが…』
目を白黒させながら長い足をバタバタさせる永明さんに、良浜がまたキャッキャと笑います。
『おかあちゃん、らう、おねえちゃんになるのん? おとうとやいもうとがうまれるん?』
『まだや。まだ生まれへん。そやけどお母ちゃんは、これからどんどんラウちゃんの弟や妹を産むつもりなんや。大家族になるんや!』
『わーい、だいかぞく! だいかぞく! らう、あかちゃんだいすきー! いっちょにあちょぶのー!』
『うん、お母ちゃんも赤ちゃん大好きや! ラウちゃんもだーい好きや!』
(寂しがり屋の永明さん…甘えん坊の永明さん……このひとの寂しさも、母性をくすぐる可愛らしさも…パンダの神様がさずけてくださったものかもしれない)
そう心でつぶやきながら、小さな良浜を抱き上げて。
『め、梅梅さん、その話はまた、お尻が抜けた後でゆっくりと……先生! ここに来てタイヤを引っ張ってください!』
「できるか! 自力でなんとかせぇ!」
『永明さん、がんばれーー!』
高く澄んだ秋空の下で、居心地の良い家族と仲間達の声に包まれて、梅梅さんも朗らかな笑い声を上げました。
10.エピローグ
『…というわけで、永明さんは私にとっては、英雄というよりは、寂しがり屋で、甘えん坊で、辛抱強くて』
くすくすと頬を染めて笑った後、梅梅さんは
『可愛いひとなんや』
そう言って、また照れくさそうに笑いました。
『すごい…お父ちゃんがモテる秘訣って、そういうところやったんや…。僕、一日しか地上におられへんかったから、知らなかった』
福浜が溜息をつくと、
『僕は一度もお父ちゃんに会えなかったから。でもお父ちゃんのこと、たくさん知ることができて良かった!』
蘭宝も嬉しそうに頷きました。
そしてまた3人で地上をのぞき込むと、永明さんはまだぐっすりと眠っているようです。
『あらあら、もうすぐ誕生祭が始まるというのに。のんきなもんや…あら?』
ふと目を上げた梅梅さんの視界に、美しい花びらが舞いました。
薄く繊細な白い花びらがひらひらと舞い降り、降りるうちに優しい桃色に変わってゆきます。
それは永明さんのいる地上に、雪のように降り注いでいました。
『…ああ、蓉浜さんが芙蓉の花びらを撒いている。永明さんの夢の中で、綺麗な花吹雪になってるやろなぁ』
福浜と蘭宝も見上げると、向こうの雲の上に高い木が聳え、その枝にちょこんと座った女の子のパンダが見えました。
少女は両手にいっぱいの花びらを抱えて、それを空から撒いているのです。
いたずらっぽい微笑みの若々しい横顔。その可愛らしい顔がふとこちらを振り向いて、
『梅梅さーん!』
親し気に手を振りました。
お空の上でずっと若いままの蓉浜は、今では梅梅さんの親友のような、親しい妹のような存在になったのです。
(寂しがり屋の独りぼっちの男の子が、たくさんの愛を受けて、たくさんの愛を与えて、たくさんの家族と仲間とつながってるんやなぁ。
永明さん、やっぱり長生きはするものやなぁ。大家族を築いた31歳…大したひとや)
31歳になった永明さんは、今は、どんな夢を見ているのでしょうか。
幸せそうなその寝顔が、梅梅さんにはとても嬉しいのです。
眠りながら脇腹をポリポリとかいている長い手。投げ出された長い足。ピクッと動くボサボサの耳。
腰の寝癖。笑みの浮かぶ口元と長い鼻。
『永明さん、31歳のお誕生日おめでとう』
そっとつぶやいた祝福の言葉は、あのひとの夢に届いたでしょうか。
おめでとう。どうかこれからも元気で。
おめでとう。大切な愛しいひと。
おめでとう。
…可愛いひと。
おしまい
「タイヤにお尻がはまって焦る永明さんを、小さな良浜が見ている」というシーンは、実際にそういうことがあったと昔からアドベンに通っている方が語っていらしたのをネットで見かけたのを参考にしています。
(管理人わいわいより)
読了お疲れ様でした。今昔さん宛へ、ご感想をスレなどに頂けますと幸いです。
(追記)皆さんのレス
おとんのお話やで
みんな読んでや
今昔さん、わいわいさん、サンキュー珠代やで
ステキな大作が!
わたくちおりんごショリショリしながらゆっくり読ませていただきましゅよ
今昔しゃん、わいわいしゃん、ありがとシャンでしゅ
おりんごおいしそうねウフフジュルッ
今一気に読んできました
続きも楽しみにしています
今昔さん、わいわいさん、ありがとうございます
そして永明さん、誕生日おめでとうございます
今昔さんからわいわいさんにダイレクトだったのかしら
わいわいさんもまとめ掲載ありがとうございます
リピートアフターミー、24時間ライブでとても印象に残ってました
永明さん誕生祭、ほんと祭りないちにちでした
なんだかもうたくさんの思いが溢れてきてまとめきれない状態です
以前のお話にも登場した、少女の姿の蓉浜さんのシーンはゴワゴワを大量に使ってしまいました。・(つд`。)・。
今昔さんのお話はアドベンパンダ史としても楽しめてとても勉強になります
本当に素敵なお話をありがとうございました
そしてわいわいさん、いつも本当にありがとうございます