1
「おじシャン、おじシャン」
その言葉に僕は驚いた。
言葉の主を存じなかったからではない。
威張れた話ではないのだが、僕は高いところに登って隣の庭を見物するのが趣味だ。
その庭に小さな頃から大好きなシンちゃんと、その娘…きっと僕の子でもある…シャンちゃんがいることは知っている。
シャンちゃんはとても元気なコでも高いところが好きで、よく彼女と顔を合わせるのも。
ただ、シャンちゃんにとって僕は「隣からよく覘いてくるヘンなおじさん」でしかなく、威嚇すらされたことがある。
まあそれでも懲りずに今日も一番高い櫓に我が身を預けている訳だが。
そんな僕にわざわざ声を掛けてきたのだ。これはただ事ではないのだろう。
「どうかしたのかい、シャンちゃん」
僕は出来るだけ優しく、そっと返事をする。彼女の声がいつになくか細かったからだ。
「最近おかあシャンと一緒にいられなくて寂しいでしゅ」
やはりそうか。
このところなんとなくおかしいと思ってはいた。
シンちゃんの気配が遠くなって、この庭にはいない時間が増えたことに。シャンちゃんが寂しそうにお母さんを待っていることも。
だから僕もこうして隣から彼女を見守っているのだ。
けっして趣味だけはなく、うん。
「シャンちゃんは竹を食べられるようになったのかな」
「あい、なりまちた」
よかった。声にちょっと力が入った。
「おかあシャンの方がずっと早くて時々取られちゃいましゅ」
僕は思わず苦笑いを浮かべた。
「そりゃあ、あのシンちゃんに叶うパンダはそういないよ」
「でしゅよねー」
ふたりでひとしきり笑いあう。笑いの裏で僕は確信を持った。
ついにその時が来たのだと。
2
僕やシンちゃんは小さいころお母さんと離れて、同じ年頃の沢山のコと一緒に育った。
だから自分の体験として実感している訳ではない。
周りのニンゲンたちが最近よくそういう話をしているのを耳にしているだけだ。
実は僕たちはニンゲンの言葉が分かるのだよ。
おっと、話がずれてしまった。
僕たちにも別れの経験がないわけじゃない。
一緒に育ったいっぱいの友達たちは、やがて何頭かだけになり、いつの間にか一頭だけで暮らしていた。
体が大きくなり、太い竹も噛み砕けるようになり、それと同時に他のパンダといるのが辛くなってきた頃に。
君達はあんなに仲がよかったのに、それでも訪れるんだね。
独り立ちの時が。
「おかあシャン、シャンのこと嫌いになったのかな」
シャンちゃんがポツリと呟いた。
そんなことはないよ!
危うく口から飛び出しそうになった言葉を慌てて引っ込める。
「おじシャン、お口ふさいでどうかちまちた?」
いかんいかん、シャンちゃんが不思議そうに僕を見ている。
「いやあ、シャックリが出そうになってね」
「お大事にでしゅ」
目の前にあるものを一度も疑ったことのない、澄んだ瞳。
けっしてにごらせてはいけない。
その為にも…おためごかしはやめよう。
3
「シャンちゃん」
「あい?」
「シャンちゃんはお母さんと会えなくなってもお母さんのこと好きでいられるよね」
「おかあシャン…会えなくなるでしゅか!?」
シャンちゃんの目が大きく見開かれる。
ずっと一緒だよ、と言えたらどれだけ楽か。
でも…だからこそ言えない。
「ちょっと昔話をしてもいいかな」
「え!?」
僕が突然話を変えると、シャンちゃんは驚いて涙を引っ込めた。
彼女が落ち着くのを待って、僕は話を続けた。
「昔むかし、僕たちのご先祖は他の動物と争うのがイヤで高くて寒い山に登り、そこに生えていた竹を食べるようになった。その時ひとつの決め事を作ったんだ」
シャンちゃんは興味深そうに話を聞いている。
「きめごと…?」
シャンちゃんの反復に僕は大きく頷く。
「うん…竹を食べる大人のパンダ同士は離れて暮らそうってね」
「どうしてでしゅか?」
「竹はお腹がいっぱいにならないからみんな独り占めしたくなるし、時々ひと山分があっという間に枯れてしまうことがある」
「そうなんでしゅか?」
まだ子供のシャンちゃんは想像がつかないらしい。
正直、僕も竹が枯れるところを見たことはないし、ご飯でケンカになった事もない…子供の頃は大抵アッサリ負けたから。
この話もちょっと大きなお兄さんパンダから伝説のように聞かされただけだ。
でも…今なら嘘じゃないと思える。
「離れて暮らせば取り合いでケンカも起きないし、自分の周りの竹が枯れても他の家族は助かるかもしれない…離れて暮らすのがパンダの愛であり、優しさなんだよ」
「ぱんだのあい…」
自分の胸に刻み付けるようにシャンちゃんは口にする。
4
「シャンちゃんはもう竹を食べる立派な大人になった。これからはお母さんと離れて暮らせるようになるのが最大の餞になるんだ」
「はなむけってなんでしゅか?」
おっと、まだ早かったか。
「おっきなおっきな『ありがとう』のことだよ」
「おかあシャンとお別れするのが『ありがとう』…本当でしゅか!?」
まだピンと来ていないか…無理もない。それでもおそらく時は彼女が納得するまで待ってはくれないだろう。
「本当だよ。シャンちゃんはきっとこれから旅をする。無事に旅立つ姿を見せるのがお母さんへの一番の『ありがとう』だ」
「シャン…ここから出て行くでしゅか!?」
恐ろしいことを聞かされたとばかりに彼女は震え上がった。
「やだ…おかあシャン…」
寂しいということは、それだけ愛されたということだ。
僕たちが持っていないソレがちょっぴり羨ましくあり…それ以上に彼女にプレゼントに出来たのが誇らしく感じる。
その誇りをくれた愛しい我が娘…だからこそ、この言葉を贈りたい。
「シャンちゃんの中にはお母さんとの楽しい思い出がいっぱい詰まっているよね。お母さんと遊べなくなっても、会えなくなっても、その思い出がなくなったりウソだと思ったりするかい?」
僕の問いにシャンちゃんはフルフルと首を振る。ああ、本当にいい子に育ってくれた。
「そうだね。その思い出はシャンちゃんだけの、誰にも取られることのない大事な大事な宝物だ」
「シャンの…たからもの」
彼女の目が大きく見開かれる。僕は力を込めて言葉を投げた。
「一人になっても、何処で暮らしてもそれはきっとシャンちゃんの力になってくれる。シャンちゃんを支えてくれる」
ずっと見守ることしか出来なかった僕の愛も一欠けらとして加わってくれればいいと願いつつ。
「だから」
「…シャンがんばる」
ポンとよこされたその言葉を僕は素直に受け取ることが出来なかった。心の手でお手玉をしながらようやくミットに入れた僕にシャンの言葉は続く。
「シャンが一人でもいられるのがおかあシャンへの『ありがとう』ならシャンがんばる」
瞳はまだ少し揺らいでいた。しかし、奥底に煌いている小さな輝きを僕は見逃さなかった。
大丈夫。この子ならきっと…!
5
その時シャンちゃんの更に奥から「シャンシャン、お帰りの時間ですよー」とニンゲンの声が掛かった。
「あ、お迎えきまちた」
下を向いてニカッと笑った彼女の手こずりっぷりは僕の耳にも届いている。
今日もゴネてやるつもりなのだろう。
では、僕もそろそろ降りるとしようか。
手すりから身を外した僕にシャンちゃんが声を掛けてきた。
「おじシャン、明日も会えるでしゅか?」
僕は快く頷く。
「会えるよ、明日も明後日も」
君が旅立つその日まで。
(終)
泣いた…
会社の帰りに電車で読んでうるっときで我慢した。ステキなお話しありがとう。
リーリーがシャンに、ていうのがすごくいいよ涙
なんでこんないいお話書けるんだ
今からじっくり何度も読み返すから誰か代わりに洗濯物干てきて
>離れて暮らすのがパンダの愛であり、優しさ
ジーンと来ました(涙)
争いを好まない優しい動物、ジャイアントパンダとして
シャンシャンは成長していくんですね
SS読んで今のシャン子見るとぐっとくるわ
おじシャンもみんなも見守ってるよー
私はほっこりしたしありがとうって思ったよ
ああ泣きそうだからあとでゆっくり読もう
ありがとシャン
SS嫌な人は飛ばすか違うスレに行けばいいよ
いちいちケチつけないで
涙もろくなってしまったのはシャン子が可愛いせいか加齢のせいか
SSと呼んで良いのかも憚られる、素晴らしい短編小説
貴重な時間を割いて執筆してくれてありがとうm(_ _)m